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有馬籠の歴史

歴史書に記載された有馬籠


有馬籠の歴史は大変古く、その発祥は安土桃山時代と伝えられています。

京都市の東本願寺に所蔵されている「顕如上人貝塚御座所日記」には、「天正13年(1585年)9月13日、有馬に入湯した顕如上人が、豊臣秀吉公の正室 北政所(寧々)に“有馬籠”を贈った。」と記されており、この頃には有馬籠が湯治客の土産品となっていたことが伺えます。

その後、江戸時代に著名な名産品として様々な書物で紹介された有馬籠は、明治6年、日本を代表する竹工品としてオーストリアで開催されたウィーン万国博覧会(澳国博覧会)に出品され優秀賞を受賞します。

ウィーン万博の資料、歴史的絵図

ウィーン万国博覧会は、日本国の明治政府がはじめて公式に参加・出品した博覧会であり、敷地内には日本庭園が設えられ、日本の伝統文化を代表する美術工芸品が揃えられました。
展示品となった工芸品の選定は、オーストリア公使館員のH. Sieboldにより推薦された、G. Wagenerの指導が大きく影響したとされており、 「西洋の模倣でしかない機械製品よりも、日本的で精巧な美術工芸品が相応しい」との考え方に基づきました。
その目論見は見事にあたり、日本庭園はもちろん、工芸品は大いに評判となり、ジャポニスムを形成するまでになりました。 このウィーンでのジャポニスムは、1890年代の分離派、G. Klimtの日本文様を意識した絵画などに受け継がれることになります。

ここから次第に、有馬籠を中心とする竹細工は産業として発展し、全盛期とされる明治時代後半から大正時代にかけては従業者が70名余りとなり、「籠屋町」という町が形成されました。

大正時代の有馬温泉

明治時代に刊行された、全国の名所旧跡の記録集「旅の家つと 第25 有馬の巻(国立国会図書館所蔵)」には、当時の有馬温泉の全景や泉源の様子などが収められていますが、その挿絵として竹籠が大きく描かれていることからも、この頃には有馬温泉を代表する名産品となっていたことが伺えます。

明治時代の有馬籠

また、明治27年に田中芳男が記した有馬温泉誌(国立国会図書館所蔵)には、「筆に次いで製造高が多いのは有馬籠で、豊臣秀吉の時代に千利休の好みによって籠をつくり始めたのが起源であり、外国貿易が開けてからは海外へ輸出もされている」と記録されています。

明治時代の有馬温泉誌の画像

この頃、有馬籠の職人たちは、繊細で美しい花籠などをフランスへ、丈夫で実用性のある笊(ザル)などをアメリカへ輸出し、神戸港より横浜を経由して国際的な取引も積極的に行いました。
国内においては、有馬籠を製造していた熟練の籠師(職人)たちが、現在竹細工が盛んな九州の別府へ赴き、竹細工の技法や技術などを伝えたとされています。



しかし、1945年頃には、安価で大量生産できるプラスチック製品が出回ったことや、第二次世界大戦の影響で従事者が著しく減少したこと、経済成長の中で後継者が不足したこと、などが原因となり、次第に衰退しました。

現在では、轡昭竹斎(くつわ しょうちくさい)を代表とする工房のみが、有馬籠の伝統的な技法を継承し、製造を続けています。